画像引用:© 2022 Cinéma Defacto – Miyu Prodcutions – Doghouse Films – 9402-9238 Québec inc. (micro_scope – Prodcutions l’unité centrale) – An Origianl Pictures – Studio Ma – Arte France Cinéma – Auvergne-Rhône-Alpes Cinéma
こんにちは!ころっぷです!!
今日の映画は【めくらやなぎと眠る女】です。
2022年に公開された村上春樹の短編小説を原作にしたアニメーション作品。
6つの短編小説を1つの物語に見事に脚色し、
俳優の動きや表情をモーションキャプチャで
取り込んだリアルなアニメーションは、
これまでに無い独特な世界観を描き出しています!
この映画はこんな人におススメ!!
●村上春樹の小説が好きな人
●独特なタッチのアニメーションを体験したい人
●不思議なメタファを感じたい人
●現実と想像の垣根を取り払いたい人
タイトル | めくらやなぎと眠る女 |
製作国 | フランス、ルクセンブルク、 カナダ、オランダ |
公開日 | 2022年7月26日(日本公開) |
上映時間 | 109分 |
監督 | ピエール・フォルデス |
出演(日本語版) | 磯村勇斗、玄理、塚本晋也、古舘寛治 |
暗喩的な世界に身を委ねたい時に観る映画
わたくし、ころっぷも御多分に漏れず20年来のハルキストです。
村上春樹の著書の多分8割程度は読んでいます。
何がそんなに魅力的で惹きつけられるのかは非常に説明し難いのですが、
そもそも人の好みというのはそういう物だと思うし、
だからアンチ村上春樹の人達の気持ちも理解出来ます。
この映画はとてもハルキ的な暗喩に満ちた作品です。
不思議な設定だし、とても奇妙な事が起る。
それが現実なのか夢なのか曖昧で、
まるで迷宮に迷い込んだ様に、確かな物が余り描かれていない様でもある。
しかし或いは確かな物しか描かれていないとも言える。
つまりはそんな作品なのです。
作中、ニーチェやコンラッドの言葉が引用されていますが、
要は真実という物の曖昧性、
想像の中にか存在しない世界、
恐怖や不安は人を憂鬱にさせますが、
それがまた人を生かしてもいるのだという事なのかもと感じたりします。
私達の目にしている世界はほんの氷山の一角に過ぎないのかも知れない。
日常のほんの些細な隙間の中に、
物語は架空の真実を描き出しているのかも知れない。
気の所為だとか、偶然だとか、
何か理屈では説明出来ない様な出来事や感覚が、
妙にリアルな質感で迫ってくるのが村上春樹の文学であり、
この【めくらやなぎと眠る女】というアニメーション作品であるのだと思います。
現実と虚構の隙間

画像引用:© 2022 Cinéma Defacto – Miyu Prodcutions – Doghouse Films – 9402-9238 Québec inc. (micro_scope – Prodcutions l’unité centrale) – An Origianl Pictures – Studio Ma – Arte France Cinéma – Auvergne-Rhône-Alpes Cinéma
今作は村上春樹の6つの短編小説を繋ぎ合わせています。
複数の登場人物の側面を持ったキャラクターを創造し、
それを同じ世界線の物語の中に融合してみせます。
それぞれどの要素や人物や出来事がどの短篇小説から抜き取られているのか、
小説を読み直しながら確認するのも面白い試みではありますが、
それ以上に1つの作品として見事に収まっている点に驚かされます。
小説の出来事の多くが、登場人物自身のエピソードであったり、
または知人のエピソードとして語られていくのですが、
それらの断片が集積されると、
村上春樹のあのとても奇妙で不思議な世界観がいつの間にか構築されているのです。
海外でも多くの読者を持つ村上春樹の与える不思議な普遍性。
内容自体は奇妙で誰もが体験する様な話では無いにも関わらず、
なぜかその物語からはある共通した「ムード」を感じてしまう。
それは「音楽」が感覚的に聴衆の意識をある地点に誘導していく様に、
「文学」であるにも関わらず「言葉」では、
説明出来ない感覚に読者を導いていく事が出来る稀有な作家であると思います。
かえるがみみずと戦って東京を救う話だとか、
居なくなってしまった猫を探して迷い込む路地裏の広い庭であるとか、
眠る女の耳から入って身体の内側を食べてしまう蠅の話とか。
まるで奇妙で現実離れしたエピソードがどことなく不気味ながらも、
深い所で繋がっていく様な、共感性を帯びていく感覚が、
本当に村上作品を読んでいる時の感覚に近いものがありました。
監督のピエール・フォルデスが実に村上作品を深く理解しているが故、
小説の表層を掬うだけに留まらず、
そこにある不気味で異常でありながら共感を呼ばずにはおれない、
現代人の抱える普遍的なテーマを表現する事に成功しているのだと思います。
奇妙な世界は現実と地続きで存在し、
その境界は極めて曖昧で簡単に越えてしまう事が出来る。
人は「夢」や「空想」で自分自身の深層心理について考えたりしますが、
目の前にある「風景」にそれらは巧妙に溶け込んでしまっている。
そんな感覚が映画全体に漂っています。
暗喩的おつまみ

今日のおつまみは【スパゲッティ・ボロネーゼ】です。
村上春樹作品に度々登場する主人公がスパゲッティを茹でているシーン。
それに因んでのメニューです。
お腹が減れば直喩も暗喩も無いのですが、
なぜ村上作品の主人公は小腹が空くとスパゲッティを茹で、
簡単なサンドウィッチを手際良く作るのか。
何だ小洒落やがって、このアメリカかぶれが!と、
アンチ村上春樹の人達の声が聞こえてきそうですが、
食べ物に罪はございません。
ただ美味しく頂けばいいのです。
これは昼間から赤ワインと共に食したい一品ですよね。
曖昧な記憶と生活との境界線

画像引用:© 2022 Cinéma Defacto – Miyu Prodcutions – Doghouse Films – 9402-9238 Québec inc. (micro_scope – Prodcutions l’unité centrale) – An Origianl Pictures – Studio Ma – Arte France Cinéma – Auvergne-Rhône-Alpes Cinéma
私達の生活の多くは「繰り返し」によって成り立っています。
変わり映えしない毎日の蓄積で、
その境界線は時が経つにつれどんどん曖昧になっていきます。
「あれはいつの事だったか」
「あれは誰が言った事だったか」
小説を読んだり、映画を観たり、音楽を聴くという行為には、
この曖昧な記憶と向き合うという側面があったりもするのです。
それははっきりと思い出す事だとか、
記憶力の鍛錬になるといった意味ではありません。
あくまでも曖昧なままなのですが、
記憶の中にある現実だったか虚構だったかも忘れてしまった様な感覚と、
再会し、互いをよく眺め、再認識し、時には理解を深め合ったりする。
そんな事が出来る作品が、わたしにとっては「良い作品」なのです。
「芸術」や、或いはもっと大きく言えば「人生」とは、
完全に主観的なものなので、
その「喜び」や「痛み」は基本的には他者と共有は出来ないものです。
同じ作品を前にしても、完全に同じ感覚は得られない。
至って当たり前の事ですが、実はそれはとても重要で凄い事なのです。
暗喩とはあるものを別の何かに置き換えて表現しようとする比喩の一種ですが、
それによって発起されるイメージは人それぞれ千差万別という訳です。
数式や物理と違って絶対的な正解や不正解は存在しない。
曖昧模糊で不安定なもの。
だからこそ自由で奥深いとも言えますが、
はっきりとした「答え」が無いものは、
人を不安にさせますし不快にさせる事も往々にしてあります。
その辺りが村上文学が嫌われる所以なのかも知れませんが、
あくまで好みは主観なのでそれもまた千差万別でしょう。
この映画は人に不快を与える事を厭わずに、
実に堂々と曖昧な物語を描いています。
何かを何かに置き換えて表現する時に、
そこには変わらず「時差」の様な奇妙な感覚のズレが生じる。
それを楽しめるかどうかがこの作品の好悪の別れ道だと思います。
暗喩的な世界に身を委ねたい時に観る映画。
映画には人にその内容を聞かれて簡単に答えられる作品と、
そうでは無い作品とがあります。
この【めくらやなぎと眠る女】という作品は、
そこで何が起きたかを表層的に語る事は出来ますが、
それがどんな意味を成すのかについては答えに窮する類の映画です。
つまりは観て、自分で判断するしかない。
映画のレヴュー記事としてそれを言ったらお仕舞いだという様な台詞ですが、
本来「芸術」というものはそう作られてるのだと思います。
ピカソのゲルニカに何が描かれているかは伝えられますが、
そこにどんな意味があるのかは説明出来ないですもんね。
観て、感じるしかない。
兎に角そんな「変」な映画に興味がありましたら、
是非ご自分の目で確かめてみて下さい。